先輩崇拝といふことはいづれの社会にも有之候。それも年長者に対し元勲に対し相当の敬礼を尽すの意ならば至当の事なれども、それと同時に、何かは知らずその人の力量技術を崇拝するに至りては愚の至りに御座候。田舎の者などは御歌所(おうたどころ)といへばえらい歌人の集り、御歌所長といへば天下第一の歌よみの様に考へ、従てその人の歌と聞けば、読まぬ内からはや善き者と定めをるなどありうちの事にて、生も昔はその仲間の一人に候ひき。今より追想すれば赤面するほどの事に候。御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐(すわ)るにもあらざるべく候。今日は歌よみなる者皆無の時なれど、それでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間に可有之(これあるべく)候。田舎の者が元勲を崇拝し、大臣をえらい者に思ひ、政治上の力量も識見も元勲大臣が一番に位する者と迷信致候結果、新聞記者などが大臣を誹(そし)るを見て「いくら新聞屋が法螺(ほら)吹いたとて、大臣は親任官(しんにんかん)、新聞屋は素寒貧(すかんぴん)、月と泥鼈(すっぽん)ほどの違ひだ」などと罵(ののし)り申候。少し眼のある者は元勲がどれ位無能力かといふ事、大臣は廻(まわ)り持(もち)にて、新聞記者より大臣に上りし実例ある事位は承知致し説き聞かせ候へども、田舎の先生は一向無頓著にて、あひかはらず元勲崇拝なるも腹立たしき訳に候。あれほど民間にてやかましくいふ政治の上なほしかりとすれば、今まで隠居したる歌社会に老人崇拝の田舎者多きも怪むに足らねども、この老人崇拝の弊を改めねば歌は進歩不可致(いたすべからず)候。歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賤も無之候。歌よまんとする少年あらば、老人抔(など)にかまはず、勝手に歌を詠むが善かるべくと御伝言可被下(くださるべく)候。明治の漢詩壇が振ひたるは、老人そちのけにして青年の詩人が出たる故に候。俳句の観を改めたるも、月並連(つきなみれん)に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候。

 縁語を多く用うるは和歌の弊なり、縁語も場合によりては善けれど、普通には縁語、かけ合せなどあれば、それがために歌の趣を損ずる者に候。縦(よ)し言ひおほせたりとて、この種の美は美の中の下等なる者と存候。むやみに縁語を入れたがる歌よみは、むやみに地口(じぐち)駄洒落(だじゃれ)を並べたがる半可通(はんかつう)と同じく、御当人は大得意なれども側(はた)より見れば品の悪き事夥(おびただ)しく候。縁語に巧(たくみ)を弄(ろう)せんよりは、真率に言ひながしたるがよほど上品に相見え申候。

 歌といふといつでも言葉の論が出るには困り候。歌では「ぼたん」とは言はず「ふかみぐさ」と詠むが正当なりとか、この詞(ことば)はかうは言はず、必ずかういふしきたりの者ぞなど言はるる人有之候へども、それは根本において已に愚考と異りをり候。愚考は古人のいふた通りに言はんとするにてもなく、しきたりに倣(なら)はんとするにてもなく、ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候。故に俗語を用ゐたる方その美感を現すに適せりと思はば、雅語を捨てて俗語を用ゐ可申、また古来のしきたりの通りに詠むことも有之候へど、それはしきたりなるが故にそれを守りたるにては無之(これなく)、その方が美感を現すに適せるがためにこれを用ゐたるまでに候。古人のしきたりなど申せども、その古人は自分が新(あらた)に用ゐたるぞ多く候べき。

 牡丹(ぼたん)と深見草(ふかみぐさ)との区別を申さんに、生らには深見草といふよりも牡丹といふ方が牡丹の幻影早く著(いちじるし)く現れ申候。かつ「ぼたん」といふ音の方が強くして、実際の牡丹の花の大きく凛(りん)としたる所に善く副(そ)ひ申候。故に客観的に牡丹の美を現さんとすれば、牡丹と詠むが善き場合多かるべく候。

 新奇なる事を詠めといふと、汽車、鉄道などいふいはゆる文明の器械を持ち出す人あれど大(おおい)に量見が間違ひをり候。文明の器械は多く不(ぶ)風流なる者にて歌に入りがたく候へども、もしこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外無之候。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。せめてはレールの傍に菫(すみれ)が咲いてゐるとか、または汽車の過ぎた後で罌粟(けし)が散るとか、薄(すすき)がそよぐとか言ふやうに、他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。また殺風景なる者は遠望する方よろしく候。菜の花の向ふに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするが如きも、殺風景を消す一手段かと存候。

 いろいろ言ひたきまま取り集めて申上候。なほ他日詳(つまびら)かに申上ぐる機会も可有之(これあるべく)候。以上。月日。

(明治三十一年三月四日)