十六日は必らず待まする來て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城(ゆふき)の朝之助(とものすけ)に不圖出合て、あれと驚きし顏つきの例に似合ぬ狼狽(あわて)かたがをかしきとて、から/\と男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いて居たれば不意のやうに惶(あわ)てゝ仕舞ました、よく今夜は來て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは不心中とせめられるに、何なりと仰しやれ、言譯は後にしまするとて手を取りて引けば彌次馬がうるさいと氣をつける、何うなり勝手に言はせませう、此方(こちら)は此方と人中を分けて伴ひぬ。
下座敷はいまだに客の騷ぎはげしく、お力の中座したるに不興して喧しかりし折から、店口にておやお皈(かへ)りかの聲を聞くより、客を置ざりに中座するといふ法があるか、皈つたらば此處へ來い、顏を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒の相手は出來ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香に醉ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んで其後は知らず、今は御免なさりませと斷りを言ふてやるに、夫れで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のお店(たな)ものゝ白瓜(しろうり)が何んな事を仕出しませう、怒るなら怒れでござんすとて小女に言ひつけてお銚子の支度、來るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて氣が變つて居まするほどに其氣で附合て居て下され、御酒を思ひ切つて呑みまするから止めて下さるな、醉ふたらば介抱して下されといふに、君が醉つたを未だに見た事がない、氣が晴れるほど呑むは宜いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何が其樣なに逆鱗(げきりん)にふれた事がある、僕らに言つては惡るい事かと問はれるに、いゑ貴君には聞て頂きたいのでござんす、醉ふと申ますから驚いてはいけませぬと嫣然(につこり)として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。
常には左のみに心も留まらざりし結城の風采(やうす)の今宵は何となく尋常(なみ)ならず思はれて、肩巾のありて脊のいかにも高き處より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの凄くて人を射るやうなるも威嚴の備はれるかと嬉しく、濃き髮の毛を短かく刈あげて頸足のくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりして居ると問はれて、貴君のお顏を見て居ますのさと言へば、此奴めがと睨みつけられて、おゝ怕いお方と笑つて居るに、串戲はのけ、今夜は樣子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つて沸いた事もなければ、人との紛雜(いざ)などはよし有つたにしろ夫れは常の事、氣にもかゝらねば何しに物を思ひませう、私の時より氣まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの淺ましい譯がござんす、私は此樣な賤しい身の上、貴君は立派なお方樣、思ふ事は反對(うらはら)にお聞きになつても汲んで下さるか下さらぬか其處ほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂き度、今夜は殘らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口が利かれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。
何より先に私が身の自墮落(じだらく)を承知して居て下され、もとより箱入りの生娘ならねば少しは察しても居て下さろうが、口奇麗な事はいひますとも此あたりの人に泥の中の蓮とやら、惡業(わるさ)に染まらぬ女子があらば、繁昌どころか見に來る人もあるまじ、貴君は別物、私が處へ來る人とて大底はそれと思しめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるも寧(いつそ)九尺二間でも極まつた良人といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、夫れが私は出來ませぬ、夫れかと言つて來るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初ましたのと出鱈目のお世辭をも言はねばならず、數の中には眞にうけて此樣な厄種(やくざ)を女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、夫れが私は分りませぬ、そも/\の最初(はじめ)から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかゝらねば戀しいほどなれど、奧樣にと言ふて下されたら何うでござんしよか、持たれるは嫌なり他處ながらは慕はしゝ、一ト口に言はれたら浮氣者でござんせう、あゝ此樣な浮氣者には誰れがしたと思召、三代傳はつての出來そこね、親父が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、其親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父は四角な字をば讀んだ人でござんす、つまりは私のやうな氣違ひで、世に益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされぬとかに斷食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出來したる事なく、終は人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住歎いたを子供の頃より聞知つて居りました、私の父といふは三つの歳に椽から落て片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて居職に飾の金物をこしらへましたれど、氣位たかくて人愛のなければ贔負にしてくれる人もなく、あゝ私が覺えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら古裕衣(ふるゆかた)で、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つ竈(べツつひ)に破(わ)れ鍋かけて私に去る物を買ひに行けといふ、味噌こし下げて端たのお錢(あし)を手に握つて米屋の門までは嬉しく驅けつけたれど、歸りには寒さの身にしみて手も足も龜(かじ)かみたれば五六軒隔てし溝板の上の氷にすべり、足溜りなく轉(こ)ける機會(はずみ)に手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざら/\と飜(こぼ)れ入れば、下は行水きたなき溝泥なり、幾度も覗いては見たれど是れをば何として拾はれませう、其時私は七つであつたれど家の内の樣子、父母の心をも知れてあるにお米は途中で落しましたと空の味噌こしさげて家には歸られず、立てしばらく泣いて居たれど何うしたと問ふて呉れる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更なし、あの時近處に川なり池なりあらうなら私は定し身を投げて仕舞ひましたろ、話しは誠の百分一、私は其頃から氣が狂つたのでござんす、皈りの遲きを母の親案じて尋ねに來てくれたをば時機(しほ)に家へは戻つたれど、母も物いはず父親も無言に、誰れ一人私をば叱る物もなく、家の内森として折々溜息の聲のもれるに私は身を切られるより情なく、今日は一日斷食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。
いひさしてお力は溢れ出る涙の止め難ければ紅ひの手巾かほに押當て其端を喰ひしめつゝ物いはぬ事小半時、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり聲のみ高く聞えぬ。
顏をあげし時は頬に涙の痕は見ゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私は其樣な貧乏人の娘、氣違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜も此樣な分らぬ事いひ出して嘸貴君御迷惑で御座んしてしよ、もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽氣にしませうかと問へば、いや遠慮は無沙汰、その父(てゝ)親は早くに死くなつてか、はあ母さんが肺結核といふを煩つて死なりましてから一週忌の來ぬほどに跡を追ひました、今居りましても未だ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふても宜い人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついたは何にもなる事は出來ないので御座んせう、我身の上にも知れまするとて物思はしき風情、お前は出世を望むなと突然(だしぬけ)に朝之助に言はれて、ゑツと驚きし樣子に見えしが、私等が身にて望んだ處が味噌こしが落、何の玉の輿までは思ひがけませぬといふ、嘘をいふは人に依る始めから何も見知つて居るに隱すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれ/\とあるに、あれ其やうなけしかけ詞はよして下され、何うで此樣な身でござんするにと打しをれて又もの言はず。
今宵もいたく更けぬ、下坐敷の人はいつか歸りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて歸り支度するを、お力は何うでも泊らするといふ、いつしか下駄をも藏(かく)させたれば、足を取られて幽靈ならぬ身の戸のすき間より出る事もなるまじとて今宵は此處に泊る事となりぬ、雨戸を鎖す音一しきり賑はしく、後には透きもる燈火のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。
下座敷はいまだに客の騷ぎはげしく、お力の中座したるに不興して喧しかりし折から、店口にておやお皈(かへ)りかの聲を聞くより、客を置ざりに中座するといふ法があるか、皈つたらば此處へ來い、顏を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒の相手は出來ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香に醉ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んで其後は知らず、今は御免なさりませと斷りを言ふてやるに、夫れで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のお店(たな)ものゝ白瓜(しろうり)が何んな事を仕出しませう、怒るなら怒れでござんすとて小女に言ひつけてお銚子の支度、來るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて氣が變つて居まするほどに其氣で附合て居て下され、御酒を思ひ切つて呑みまするから止めて下さるな、醉ふたらば介抱して下されといふに、君が醉つたを未だに見た事がない、氣が晴れるほど呑むは宜いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何が其樣なに逆鱗(げきりん)にふれた事がある、僕らに言つては惡るい事かと問はれるに、いゑ貴君には聞て頂きたいのでござんす、醉ふと申ますから驚いてはいけませぬと嫣然(につこり)として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。
常には左のみに心も留まらざりし結城の風采(やうす)の今宵は何となく尋常(なみ)ならず思はれて、肩巾のありて脊のいかにも高き處より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの凄くて人を射るやうなるも威嚴の備はれるかと嬉しく、濃き髮の毛を短かく刈あげて頸足のくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりして居ると問はれて、貴君のお顏を見て居ますのさと言へば、此奴めがと睨みつけられて、おゝ怕いお方と笑つて居るに、串戲はのけ、今夜は樣子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つて沸いた事もなければ、人との紛雜(いざ)などはよし有つたにしろ夫れは常の事、氣にもかゝらねば何しに物を思ひませう、私の時より氣まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの淺ましい譯がござんす、私は此樣な賤しい身の上、貴君は立派なお方樣、思ふ事は反對(うらはら)にお聞きになつても汲んで下さるか下さらぬか其處ほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂き度、今夜は殘らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口が利かれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。
何より先に私が身の自墮落(じだらく)を承知して居て下され、もとより箱入りの生娘ならねば少しは察しても居て下さろうが、口奇麗な事はいひますとも此あたりの人に泥の中の蓮とやら、惡業(わるさ)に染まらぬ女子があらば、繁昌どころか見に來る人もあるまじ、貴君は別物、私が處へ來る人とて大底はそれと思しめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるも寧(いつそ)九尺二間でも極まつた良人といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、夫れが私は出來ませぬ、夫れかと言つて來るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初ましたのと出鱈目のお世辭をも言はねばならず、數の中には眞にうけて此樣な厄種(やくざ)を女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、夫れが私は分りませぬ、そも/\の最初(はじめ)から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかゝらねば戀しいほどなれど、奧樣にと言ふて下されたら何うでござんしよか、持たれるは嫌なり他處ながらは慕はしゝ、一ト口に言はれたら浮氣者でござんせう、あゝ此樣な浮氣者には誰れがしたと思召、三代傳はつての出來そこね、親父が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、其親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父は四角な字をば讀んだ人でござんす、つまりは私のやうな氣違ひで、世に益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされぬとかに斷食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出來したる事なく、終は人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住歎いたを子供の頃より聞知つて居りました、私の父といふは三つの歳に椽から落て片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて居職に飾の金物をこしらへましたれど、氣位たかくて人愛のなければ贔負にしてくれる人もなく、あゝ私が覺えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら古裕衣(ふるゆかた)で、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つ竈(べツつひ)に破(わ)れ鍋かけて私に去る物を買ひに行けといふ、味噌こし下げて端たのお錢(あし)を手に握つて米屋の門までは嬉しく驅けつけたれど、歸りには寒さの身にしみて手も足も龜(かじ)かみたれば五六軒隔てし溝板の上の氷にすべり、足溜りなく轉(こ)ける機會(はずみ)に手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざら/\と飜(こぼ)れ入れば、下は行水きたなき溝泥なり、幾度も覗いては見たれど是れをば何として拾はれませう、其時私は七つであつたれど家の内の樣子、父母の心をも知れてあるにお米は途中で落しましたと空の味噌こしさげて家には歸られず、立てしばらく泣いて居たれど何うしたと問ふて呉れる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更なし、あの時近處に川なり池なりあらうなら私は定し身を投げて仕舞ひましたろ、話しは誠の百分一、私は其頃から氣が狂つたのでござんす、皈りの遲きを母の親案じて尋ねに來てくれたをば時機(しほ)に家へは戻つたれど、母も物いはず父親も無言に、誰れ一人私をば叱る物もなく、家の内森として折々溜息の聲のもれるに私は身を切られるより情なく、今日は一日斷食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。
いひさしてお力は溢れ出る涙の止め難ければ紅ひの手巾かほに押當て其端を喰ひしめつゝ物いはぬ事小半時、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり聲のみ高く聞えぬ。
顏をあげし時は頬に涙の痕は見ゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私は其樣な貧乏人の娘、氣違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜も此樣な分らぬ事いひ出して嘸貴君御迷惑で御座んしてしよ、もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽氣にしませうかと問へば、いや遠慮は無沙汰、その父(てゝ)親は早くに死くなつてか、はあ母さんが肺結核といふを煩つて死なりましてから一週忌の來ぬほどに跡を追ひました、今居りましても未だ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふても宜い人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついたは何にもなる事は出來ないので御座んせう、我身の上にも知れまするとて物思はしき風情、お前は出世を望むなと突然(だしぬけ)に朝之助に言はれて、ゑツと驚きし樣子に見えしが、私等が身にて望んだ處が味噌こしが落、何の玉の輿までは思ひがけませぬといふ、嘘をいふは人に依る始めから何も見知つて居るに隱すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれ/\とあるに、あれ其やうなけしかけ詞はよして下され、何うで此樣な身でござんするにと打しをれて又もの言はず。
今宵もいたく更けぬ、下坐敷の人はいつか歸りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて歸り支度するを、お力は何うでも泊らするといふ、いつしか下駄をも藏(かく)させたれば、足を取られて幽靈ならぬ身の戸のすき間より出る事もなるまじとて今宵は此處に泊る事となりぬ、雨戸を鎖す音一しきり賑はしく、後には透きもる燈火のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。