たちまち、魚容は雄(おす)の烏。眼をぱちぱちさせて起き上り、ちょんと廊下の欄干(らんかん)にとまって、嘴(くちばし)で羽をかいつくろい、翼をひろげて危げに飛び立ち、いましも斜陽を一ぱい帆に浴びて湖畔を通る舟の上に、むらがり噪いで肉片の饗応(きょうおう)にあずかっている数百の神烏(しんう)にまじって、右往左往し、舟子の投げ上げる肉片を上手(じょうず)に嘴に受けて、すぐにもう、生れてはじめてと思われるほどの満腹感を覚え、岸の林に引上げて来て、梢(こずえ)にとまり、林に嘴をこすって、水満々の洞庭の湖面の夕日に映えて黄金色に輝いている様を見渡し、「秋風飜(ひるがえ)す黄金浪花千片か」などと所謂(いわゆる)君子蕩々然(とうとうぜん)とうそぶいていると、

「あなた、」と艶(えん)なる女性の声がして、「お気に召しまして?」

 見ると、自分と同じ枝に雌(めす)の烏が一羽とまっている。

「おそれいります。」魚容は一揖(いちゆう)して、「何せどうも、身は軽くして泥滓(でいし)を離れたのですからなあ。叱らないで下さいよ。」とつい口癖になっているので、余計な一言を附加えた。

「存じて居ります。」と雌の烏は落ちついて、「ずいぶんいままで、御苦労をなさいましたそうですからね。お察し申しますわ。でも、もう、これからは大丈夫。あたしがついていますわ。」

「失礼ですが、あなたは、どなたです。」
「あら、あたしは、ただ、あなたのお傍に。どんな用でも言いつけて下さいまし。あたしは、何でも致します。そう思っていらして下さい。おいや?」
「いやじゃないが、」魚容は狼狽(ろうばい)して、「乃公(おれ)にはちゃんと女房があります。浮気は君子の慎しむところです。あなたは、乃公を邪道に誘惑しようとしている。」と無理に分別顔を装うて言った。

「ひどいわ。あたしが軽はずみの好色の念からあなたに言い寄ったとでもお思いなの? ひどいわ。これはみな呉王さまの情深いお取りはからいですわ。あなたをお慰め申すように、あたしは呉王さまから言いつかったのよ。あなたはもう、人間でないのですから、人間界の奥さんの事なんか忘れてしまってもいいのよ。あなたの奥さんはずいぶんお優しいお方かも知れないけれど、あたしだってそれに負けずに、一生懸命あなたのお世話をしますわ。烏の操(みさお)は、人間の操よりも、もっと正しいという事をお見せしてあげますから、おいやでしょうけれど、これから、あたしをお傍に置いて下さいな。あたしの名前は、竹青というの。」

 魚容は情に感じて、
「ありがとう。乃公も実は人間界でさんざんの目に遭(あ)って来ているので、どうも疑い深くなって、あなたの御親切も素直に受取る事が出来なかったのです。ごめんなさい。」
「あら、そんなに改まった言い方をしては、おかしいわ。きょうから、あたしはあなたの召使いじゃないの。それでは旦那(だんな)様、ちょっと食後の御散歩は、いかがでしょう。」
「うむ、」と魚容もいまは鷹揚(おうよう)にうなずき、「案内たのむ。」
「それでは、ついていらっしゃい。」とぱっと飛び立つ。

 秋風嫋々(じょうじょう)と翼を撫(な)で、洞庭の烟波(えんぱ)眼下にあり、はるかに望めば岳陽の甍(いらか)、灼爛(しゃくらん)と落日に燃え、さらに眼を転ずれば、君山、玉鏡に可憐(かれん)一点の翠黛(すいたい)を描いて湘君(しょうくん)の俤(おもかげ)をしのばしめ、黒衣の新夫婦は唖々(ああ)と鳴きかわして先になり後になり憂(うれ)えず惑わず懼(おそ)れず心のままに飛翔(ひしょう)して、疲れると帰帆の檣上(しょうじょう)にならんで止って翼を休め、顔を見合わせて微笑(ほほえ)み、やがて日が暮れると洞庭秋月皎々(こうこう)たるを賞しながら飄然(ひょうぜん)と塒(ねぐら)に帰り、互に羽をすり寄せて眠り、朝になると二羽そろって洞庭の湖水でぱちゃぱちゃとからだを洗い口を嗽(すす)ぎ、岸に近づく舟をめがけて飛び立てば、舟子どもから朝食の奉納があり、新婦の竹青は初(う)い初(う)いしく恥じらいながら影の形に添う如くいつも傍にあって何かと優しく世話を焼き、落第書生の魚容も、その半生の不幸をここで一ぺんに吹き飛ばしたような思いであった。

 その日の午後、いまは全く呉王廟の神烏の一羽になりすまして、往来の舟の帆檣にたわむれ、折から兵士を満載した大舟が通り、仲間の烏どもは、あれは危いと逃げて、竹青もけたたましく鳴いて警告したのだけれども、魚容の神烏は何せ自由に飛翔できるのがうれしくてたまらず、得意げにその兵士の舟の上を旋回(せんかい)していたら、ひとりのいたずらっ児(こ)の兵士が、ひょうと矢を射てあやまたず魚容の胸をつらぬき、石のように落下する間一髪、竹青、稲妻(いなずま)の如く迅速に飛んで来て魚容の翼を咥(くわ)え、颯(さっ)と引上げて、呉王廟の廊下に、瀕死(ひんし)の魚容を寝かせ、涙を流しながら甲斐甲斐(かいがい)しく介抱(かいほう)した。けれども、かなりの重傷で、とても助からぬと見て竹青は、一声悲しく高く鳴いて数百羽の仲間の烏を集め、羽ばたきの音も物凄(ものすご)く一斉に飛び立ってかの舟を襲い、羽で湖面を煽(あお)って大浪を起し忽(たちま)ち舟を顛覆(てんぷく)させて見事に報讐(ほうしゅう)し、大烏群は全湖面を震撼(しんかん)させるほどの騒然たる凱歌(がいか)を挙げた。竹青はいそいで魚容の許(もと)に引返し、その嘴を魚容の頬にすり寄せて、
「聞えますか。あの、仲間の凱歌が聞えますか。」と哀慟(あいどう)して言う。